活路


おおよそ7日間食べたいと思い続けていた宝石をようやく食べたのが主要な理由なのか今日はわりとのびやかに生きた。出てくるものをなめらかにひとつひとつ汲みとれる。重心をいつもの逆に置いてみたことや背中を胸をひらいていたこともここ数日の落ちこみすぎなさに繋がっている気がする。落ちなくはないけれど。バイト先に日向夏のタルトがいて、それも宝石のようでうるおい、アオモジという花も入ってきて、花言葉は”友人が多い”らしかった。茎を折ると、青いにおいがした。

うつくしいものが見たいなら自分のメンテナンスをしっかり と言いたい日だった それが土台 多分

-


昼、久しぶりに1人スタジオに入って古い曲をやるもなんだかしけっていてあんまりもうよくない気がした。新しい曲をやったらまだましだったもののだめだこりゃーとなってバイト、夜 布団の中で、メレディスのギター練習動画を見てなんだかしんみりする。言わなくてもいいことをなぜ人は言いたくなってしまうかなあとまた思っている。明日はほっけを焼いて飯を食べるぞ 明日 長い 眠る前のちょっとした記録

-


さっきまで見ていた 夢で、野村和孝さんがどこか南米のほうのスーパーみたいな場所にいて、そこにはクモやガガンボ・ニシキヘビなどの虫類・爬虫類がプラケースにたくさん入って販売されており、それをバイキングさながら安っぽい水色の星がたくさんついた大きな紙コップに、スコップでにこにこしながらたくさんつめていた。とある場所でやった自分のライブ(思い出したくない)のCDだかDVDがなぜかメルカリのようなオークションで販売されており、 でもそのライブの共演者が国際色ゆたかな感じに脚色されていた 、を 面白そう、買う買う!と明るく言ってくれたので、これはなんだと複雑な気持ちになった。野村さんは元気だろうか。そこでわたしは豆腐のようなものを買おうと探していた。山本精一さんのラプソディア ずっとかかっていて、なんてすばらしい歌詞だ でもお前はもっと不健康な歌詞を書け みたいなことを誰かが言っていて、わたしも そうだね となぜか思った。豆腐片手に。


新しいのをまた作ろうとシンプルに昼間思い立った。きっと棚にしまいこんだまま2年は聴かないようなものになりそう、3枚目が きっと、 へんな予感が、 3という数について想像するのはたのしい。わたしはほんとうに、夢想屋なんだなあと思った 先日


毎日宝石のような日であれるわけではないしそうでなくてまったくいいんだけれど、今日はしなびたかんぴょう・はたまたしけったクッキーのような日だったねなどと1日をぽっ と言いおとせるような脳でありたいと思ったのだった。

全部

 
 
自然でいたくてたまらない。欲求がふっと現れてはまぼろしみたいだったり、びゅんびゅん変わっていったりしてつかみどころがない。光みたい。わかりそうでわからないことだらけのなかで、1日2度風呂に入る。本でも読もうかと思うけど頭を使いたくない。そういうのの全部が自然なのかもしれない